杉山先生のこと

嶋津拓(埼玉大学教授・国際教養大学客員教授)

国際教養大学は2008年に大学院(グローバル・コミュニケーション実践研究科)を設置した。私は、その翌年の2009年から毎年9月に同研究科日本語教育実践領域の客員教授として、集中講義のために国際教養大学にお邪魔することになった。杉山朗子先生に初めてお会いしたのも、その最初の集中講義があった2009年9月のことである。

杉山先生の第一印象は、そのお名前のとおり「朗らか」な方というものだった。この印象は、その後も全く変わらなかった。大学の同僚とも、大学院生とも、本当に「朗らか」にお話になっていた。それは私との会話でも同じだった。

杉山先生は大阪のご出身である。かつては私も大阪で生活したことがあったので、折にふれて大阪の話で盛りあがった。大阪の伝統芸能である文楽や、大阪の学校教育事情について話し合ったことを思い出す。杉山先生は大阪を本当に愛していらっしゃった。

ひととき杉山先生は、NHKの「朝ドラ」にはまっていた。2010年前後の東北を舞台とした、その「朝ドラ」の魅力を、これまた「朗らか」に語っていらっしゃったことが思い出される。ストーリーもさることながら、それが勤務地の東北を舞台にしていたことも、その「朝ドラ」に杉山先生がはまっていらっしゃった理由なのではなかったかと思う。

私が杉山先生に最後にお会いしたのは、2017年9月の集中講義の時である。あとで国際教養大学の先生方にお聞きしたところでは、そのころすでに杉山先生は体調を崩されていたそうであるが、私は全く気がつかなかった。いつもと同じ「朗らか」な杉山先生だった。

このため、今年の7月に杉山先生の訃報をお聞きしたとき、本当に驚いた。悲しみよりも前に、なにしろ驚いたというのが正直なところである。毎年、私が国際教養大学に到着する時間帯に、日本語教育実践領域の先生方はD棟の1階で教育実習の指導をされており、そこで先生方と1年ぶりの再会の挨拶をするのが常だったのが、今年の9月は、その場に杉山先生がいらっしゃらなかった。この時、はじめて杉山先生が亡くなったことを実感した。その日の夜は、集中講義中の宿舎である「さくらヴィレッジ」の近くにあるベンチに座って、ひとり様々なことを思い出していた。

今年、国際教養大学の日本語教育実践領域は、設立10周年を迎える。私は毎年9月に数日間お邪魔するだけの客員教授の立場に過ぎないが、それでも、この10年間の日本語教育実践領域の発展ぶりは実感していた。それは、教授あるいは領域代表として活躍された杉山先生のご尽力のたまものである。杉山先生のご逝去はあまりにも早すぎて、ご本人にとっても、ご親族や国際教養大学の先生方にとっても、さぞかしご無念だったことと思われるが、杉山先生があとに残されたものは大きい。それが将来に向けて継承され、さらに発展していくことを願ってやまない。

(以上)

Akiko Sugiyama Memorial

このHPは2018年7月25日にご逝去された故杉山朗子先生に捧げます。

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