追悼文集

故・杉山朗子先生を偲び、多くの皆様よりご寄稿をいただきました。 心より御礼申し上げます。

いただいた追悼文は、ご寄稿いただいた時間順に掲載させていただきました。何卒ご了承下さいませ。

Akiko Sugiyama Momorialは2024年12月末日をもちまして終了させていただきます。ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。

杉山先生へ

先生と過ごした時間は、他の先生方と比べると短いですね。でも先生からは本当にたくさんの愛を感じていました。特に印象に残っているのは、授業で私の発言を聞いた先生が「橋本さん、おもしろ~い!」と笑顔で言ってくださったことです。このときの私は1年生で、周りと比べてなにもできない自分に劣等感を抱えてすごしていました。なので先生の言葉を聞いて心の中で号泣でした。私はこのままでいいんだって思わせてくださいました。先生が私に向けてくださった温かいあの笑顔を忘れません。

先生、私は今、3期の実習を乗り越えました。もうすぐ卒業します。実習中も、先生だったら私になんて声をかけるかな、と何度も考えました。アドバイザーだったこともあり、たくさんご心配をおかけした分、入学当初より成長した姿、成長の過程を先生に見ていただきたかったなと思います。

でも不思議ですね。先生のお写真の前に立つと「よく頑張ったね。」って言ってくれてる気がします。

悲しくて悲しくて悲しくて、どうして先生なの…という気持ちは消えません。

私は先生から感じとった温かさや受け取った知識をいつまでも忘れないで、教師として成長し続けたいと思います。

ありがとうございます、先生。

先生はいつまでも素敵な笑顔の、大好きな先生です。

橋本有貴

杉山朗子先生(でも私にとってはお友達の朗子さんです)とはニューヨーク州立大学バッファロー校の大学院にて勉強しながらTAとして日本語を教えていた際ご一緒させていただきました。あの頃何人かの同期の先生たちと平日の夜、それに週末にまで中華料理など食べながらみんなで楽しく教材を作ったりしたものです。私の講師生活の中でも最も充実した、そして最も楽しく仕事に勉学に励めた時期でした。オフィスも笑いでいっぱいでした。

そんな中私は私生活で色々と苦しんでいた時期があり、がむしゃらに母親業、勉学、それにTAのお仕事にと取り組んでいました。まだ赤ん坊だったうちの息子をカーシートに乗せたまま、走り回っていた中、ベビーシッターが見つからなかった際などうちの子をみてくれたりさりげなくサポートしてくれたのが朗子さんでした。朗子さんは困っている人がいればすぐに察知し自ら手を差し伸べてくれる本当に心の優しい友達だったんです。

朗子さんがバッファローを出て秋田で教え始めた後、バッファローを訪れてくれた際にお会いしたのが最後だったと思います。随分前です。。。「秋田に晋ちゃんと一緒に遊びに来てね」と何度も誘ってくれ、日本に帰国した際に行こう行こうと思っていたのにもかかわらず結局訪れることなく、朗子さんは去ってしまいました。。。実はお知らせを頂いた直前にちょうど、朗子さん、どうしてるかなあ。。またメールしてみよう、と思っていたところだったんです。どうしてもっと早く連絡しなかったんでしょう?悔やまれて仕方がありません。息子も随分大きくなり、これから昔からのお友達ともまた連絡を取り合いながら再会したいと思い始めたところでした。もう一度「あの頃は本当にありがとう」とお礼が言いたかった。。。

同じころ大学院で共に勉強した何人かのお友達にこの悲しいお知らせを伝えました。そのお友達とも久しぶりに連絡を取り合いました。大変悲しい機会であったにせよ、朗子さんがまた私たちをつなげてくれたんだね、と話しています。

朗子さんが引越しをする際に頂いた絵を私は額に入れて今でも居間に飾っています。その絵を見る度にこれからも朗子さんのことを思い続けたいと思います。どうか安らかにお眠りください。

坂本明美

堀内 仁(国際教養大学日本語教育実践領域)

先生の姿がもう見られないなんて、未だに信じられません。入院されると聞いてからも絶対にまた秋田に戻ってきてくださると信じていましたから。もう少しだけでも、杉山先生の下で、ご一緒に仕事がしたかった・・・。

 AIUでの仕事の面接で初めて先生にお会いしてから約10年になりますが、その時からこんな上司の下でなら気持ちよくお仕事ができるのではと、私はAIUでの仕事を即決しました。そしてこの9年間その期待を一度も裏切られたことはありませんでした。

 私達家族が秋田に着いたその日から、一番親身になって私たちが早く定着できるよう色々サポートしてくださいましたね。特に、学期中の一番忙しい時期に、私が日本の運転免許への書き換えで困っていたところを、色々と救いの手を差し伸べてくださった御恩は忘れられません。また、私だけでなく妻や娘にも本当に良くしてくださいました。仕事には関係のない妻の話に長い時間付き合ってくださいましたし、娘には先生が子供の頃読んでいらした世界文学名作全集を全巻譲ってくださり、大変感謝しております。娘はこの全集のお話が大好きで、毎日暇さえあれば読んでいました。この全集のお陰で飛躍的に彼女の日本語が伸びたと思います。

 初めの頃、私は仕事に関することはつい何でも先生に相談させていただきましたが、「あなたの上司は私ではない」と言われながらも、親切にご助言いただきました。先生が日本語プログラムのヘッドもしていた頃、あれだけの仕事をこなしながら、部下・同僚や学生、周囲の人たちへの思いやりを忘れず、私もどれだけ救われたことか!私のような者に対しても親しみを込めて「ひとちゃん」と呼んでくださったり、性別とか年齢とか分け隔てなくいつも仲間に入れて付き合ってくださったり、等々。

 大学院(JLT)、特に教育実習クラスではいわゆる「集団指導体制(!?)」でしたので、いつも身近で先生の院生や他の関係者への対応の仕方を見聞きすることが出来、本当に勉強させていだきました。的確なご指摘やご意見の中にもいつも先生のおおらかさや明るさが滲み出ていました。先生がJLTのヘッドになり、先生の下で働けた1年数か月は本当にうれしかったです。特に、先生と左治木先生と一緒に院生の成長に関する共同研究ができたこと、その成果をシンガポールや日本の学会で一緒に発表できたことは私にとってかけがえのない経験となりました。

 杉山先生とのAIUでの思い出はずっと私の心の中に生き続けるでしょう。どうか今後もJLTをお見守りください。

JLT8期生 深澤 香

今年の7月の終わり、私の一時帰国の時期とタイミングがあった同期と一緒に秋田旅行を兼ね、一年ぶりに母校訪問する予定だった。「久しぶりに院の先生方に会えるね」と連絡を取り合っていた矢先の訃報に驚きを隠せなかった。AIUで杉山先生が指導して下さった最後の期が私たち8期になるとは夢にも思っていなかった。8期は社会人経験のある3人だけ、春の海外実習も行き先は3人バラバラ、ということもあってか、2年次の冬実習と春実習は「ソロ活動」となり、教員と実習生がペアを組み、マンツーマンで指導が受けられた。杉山先生は私の直接の指導教官ではなかったため、授業として教わったのは1年次のSLAと中上級のクラス、そして2年次の秋実習ということになる。授業を通して杉山先生から学んだことは数知れず、授業外でも気さくにいろいろと相談にのってくださった。

中でも特に印象に残っているのは、なぜか冬実習の打ち上げのときの話である。たまたま杉山先生と同じテーブルについていた私は、どういう流れでそういう話になったのかよく覚えていないが、こんな話をうかがった。「(テニスのラリーにたとえるなら、)相手が打ち返しやすいようなボールを打つコーチは、コーチが動くから疲れる。でも、相手をもう一歩動かして打たせるようなボールを打つコーチだと…?」(ヴィゴツキーの話だったかな?)

 ちなみに今の私はその「もう一歩」が目の前の学生にとって果たして適切なのかどうか、自問自答する日々である。今夏新たな挑戦のため、推薦状を受け取りに行った先に杉山先生のお姿はなかった。明るいオフィスはまだそのままで、信じられない気持ちでいっぱいになった。そのうちまたどこからか笑いながら戻ってこられそうな気さえした。本を2冊選んで持っていっていいよと言われ、杉山先生といえば…SLA?フィードバック?アクションリサーチ?いや、個人的には評価も気になるし…と、迷いに迷って時間がかかってしまった。

 秋田旅行から実家に戻った私は、その新たな挑戦のため事前課題に取りかかった。中上級のクラスの課題を思い出し、なんとか仕上げることができた。きっと先生が応援してくださったのだろう。面接でも褒めていただき、結果として内定をいただいた。

杉山先生に直接ご報告できないのが本当に残念であるが、たくさんの教えを胸に今後も精進していきたい。

JLT9期生 醍醐汐音

はじめに、杉山朗子先生のご逝去にあたり心よりお悔やみ申し上げます。

私達JLT9期生が秋実習を終えた直後に杉山先生が療養なさると聞いてから、必ず秋田にお戻りになると信じていました。時が過ぎても良い知らせを聞くことができず心配は募る一方でしたが、心の中で思うだけで、授業後に教室で別れた時が先生とお会いした最期になってしまったことに後悔が募ります。

 療養の直前までJLTのお仕事を全うされ、私達の実習の面倒を見てくださったことに感謝の念が堪えません。療養に入られてからも、院生それぞれの様子や進路などを常に気にかけてくださっていたと聞き、私達の様子を伝えてくださっていた大学院の先生方にも感謝しております。

 杉山先生のことを思い出す度に、まず思い浮かぶのは先生の笑顔です。どんな時にお会いしても、にこやかに笑っていらっしゃったことが思い出されます。疲れている時や実習授業が上手くいかずに落ち込んでいる時も先生の明るく素敵な笑顔を見ると、不思議と力が湧きました。

 秋実習での実習後の反省会においても、時には厳しいご指摘をされながらも、実習生一人ひとりのいい所にも必ず触れてくださったことが思い出されます。特に最初の数回の実習授業では自信もなく、授業終了後には落ち込むことが多かったですが、杉山先生が明るく励ましてくださったことで、救われたことが多かったです。

 また、杉山先生ご自身の授業や実習の際には、先生方の教案指導やフィードバックに対して「もっとこうした方がいい」という点や、分かりにくい点があるか常に私たちに聞いてくださっていました。キャリアを積みベテランの域に達しておられるにも関わらず、授業やフィードバックをより良いものにするために常にご自身のやり方を振り返り改善されていることに感動を覚えました。まさに卒業時の課題にもなっているアクション・リサーチのマインドを体現なさっていたと思います。JLTを卒業し、現在教壇に立っておりますが、上手くいかない点があった際は原因を客観的に探して、改善へ向け試行錯誤ができるのは、アクション・リサーチの手法とマインドを学んだからだと思います。

まだまだ人間的にも未熟な私ですが、先生から教えていただいた様々なことを胸に困難にぶつかっても自分と向き合き合いながらよりよい人生にしていきたいと思います。杉山先生の教育理念、そして明るくとても素敵なお人柄から受けた影響や愛を、今度は私が周りの人々にほんの少しでも還元することが、私にできることだと思います。

杉山先生、本当にありがとうございました。ご冥福を心よりお祈り致します。

三浦 もと子(オクラホマ大学:JLT三期生)

杉山先生の訃報を耳にし、もう二カ月が過ぎました。二年前にお会いした時、昨年ご挨拶のメールを差し上げた時、どちらもいつもと変わらずお元気で、こんなにも早くお別れの日が来るとは思っておりませんでした。初めは驚くばかりで心の整理がつきませんでしたが、最近やっと先生とのお別れを受け入れられてきたところです。思い出と感謝の気持ちをここに書かせていただき、追悼とさせていただきます。

杉山先生と初めてお話をさせていただいたのは、私が大学四年の時でした。卒業を目前に、日本語教師になりたいという夢をもちながらも、周りからは就職を勧められていて、私自身ぐらぐらと揺れている時期でした。就職を進めるある方から

「最近の子どもは冷たいよな。親が一生懸命働いて大変だって言ってるのに、就職しないで院に行きたいとか言うんだから。」

と言われ、大学院は諦めようか、そう思っていた頃杉山先生のオフィスにお邪魔したのが最初でした。先生は私の気持ちやこれまでのいきさつなど、熱心に聞いてくださった後で

「その就職勧める人は“冷たい”っていう形容詞の使い方、間違ってますね。」

先生はまじめな顔でおっしゃいました。応援してくれる人が周りに少ない中、日本語の先生らしいその一言で急に気持ちが楽になりました。自分の気持ちに正直になってもいいのかもしれない、そう思って進学を決めることができました。あの時先生のお言葉に背中を押していいただいたから、今私は日本語教師として働くことができております。心から感謝しております。

大学院に入学してからは、最初から最後まで、ご迷惑をおかけした二年間になりました。今思い出しても情けない場面が多く、赤面してしまいそうです。一年目の後半からスタートした模擬授業では、終わった後先生方からのコメントを頂く時が本当に何よりも緊張する時間でした。先生方から御意見を頂く中で、杉山先生は必ず初めに何が出来ていたか、どの部分がよかったのかをいつも話してくださいました。以前の模擬授業と比較してお話ししてくださることもありました。そのお言葉に助けられ、励まされたのは私だけではないはずです。

また、上級のクラスの授業見学もさせていただいたのですが、先生のクラスはとにかくディスカッションが活発で、どの学生も積極的に話をしているのが大変印象的でした。上級ですので小説を扱ったり、社会問題を扱ったり、トピックは難しいはずなのにどんどん学生が話を進めていきます。今思えば、いつも聞き上手であった先生が授業でも学生の声に耳を傾けるようにされていたから、学生は臆することなくのびのびと話せていたのではないかと思います。今実際に教師の立場になってみて、そして先生との思い出を振り返ってみて、本当に多くのことを学ばせていただいたと改めて感じております。わがままとは承知の上ですが、もっともっと勉強させていただきたかったです。

JLTを無事修了し就職することが出来た後も、私は毎日のように壁にぶつかっておりました。そんな時先生にメールでご挨拶をしお返事で励ましのお言葉を頂くと、また一学期頑張ることが出来ました。私は結局入学する前、入学してから、卒業したその後も、いつもいつも先生にお世話になっておりました。

先生と最後にご連絡が取れたのは、昨年だったと思います。色々と生活の上で変化があり、元気が出ない時でした。杉山先生は「どんな変化があっても、三浦さんは三浦さん。」とおっしゃり、最後には「スマイルを忘れずに!」という一言が添えられていました。温かいお言葉に、涙が出ました。直接お礼を申し上げられなかったこと、今でも悔やんでおります。今年他の先生方にお配りした職場の名刺も、先生に直接お渡ししたかったです。先生のおかげで今私はここでお仕事が出来ていると、ご報告がしたかったです。

まだ、あのA棟の窓際のオフィスに行くと先生がいらっしゃるのではないか、そう思ってしまう自分がおります。長い間秋田で貢献してくださった先生ですから、時々様子を見にいらっしゃるかもしれませんね。先生がいつお越しになっても安心していただけるように、先生から学んだことを忘れず、そしてスマイルを忘れず、日々励んで参ります。杉山先生、どうもありがとうございました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

JLT2期生 横野 由起子

 私は2011年8月に修士課程を修了した後も、毎年AIUを訪れてはお世話になった先生方にご挨拶するのが緊張しつつも楽しみで、杉山朗子先生にお会いできることも、いつも心待ちにしておりました。私が近況報告をすると、静かに耳を傾け、私の健康をいつも気遣ってくださっていた杉山先生。あの笑顔はもう写真でしか拝見することができないのかと思うと、とても寂しいです。在学中もいつも学生に寄り添い、明るく受け答えをしてくださる方でした。杉山先生が担当されていたコース「教師・学習者のビリーフと日本語教授法」では、自分が日頃どのように学習者と向き合っているかを振り返る機会があり、杉山先生が「ビリーフは時間とともに変わることがあるから、折をみて再確認してみると良いでしょう。」とおっしゃっていた事を思い出します。杉山先生のビリーフはどのようなものなのか、自分が教師となった今、対談してみたいテーマです。AIU日本語教育実践領域の代表としてプログラムをまとめ、更なる発展のために尽力されていた杉山先生は、きっと心残りがあるのではないかと思います。その思いを私も受け継ぐ形で、微力ながら今後も日本語教育に携わっていこうと思います。謹んで杉山朗子先生のご冥福をお祈りいたします。

武田 誠 (早稲田大学日本語教育研究センター 講師)


 この度、杉山朗子先生ご逝去の報に接し、非常に大きな驚きを覚えるとともに、未だに信じられない思いでおります。

 杉山先生に初めてお会いしたのは14年ほど前のことでした。当時私が勤務していたシンガポールの大学の語学センターが主催した国際学会で、杉山先生が阿部祐子先生との共同発表をなさり、国際学会の実行委員をしていた私にお声かけくださったのがお知り合いになるきっかけでした。

その後、2008年に私が日本に本帰国し、AIUで非常勤講師をさせていただくことになった際に再びお目にかかることとなり、それ以降、大変お世話になっておりました。

 AIUに着任したばかりの頃、日本の大学に勤務するのも初めてであった私は戸惑うことが多々ありました。そのような中、当時、日本語プログラムの代表であった杉山先生は懇切丁寧に様々なことをご教示くださいました。最初の学期、自分の担当科目に科目登録が済んでいない学生がおり、その対応についてご相談したところ、私の代わりに事務所にご連絡くださったこともありました。

 AIU在職時、杉山先生には業務のことだけではなく、生活の面でもいろいろとお世話になりました。私を含め、サマープログラム担当教員を自家用車で、時々、御所野のイオンモールへ生活必需品の買い出しに連れて行ってくださいました。また、気さくな性格の杉山先生は私と同僚の先生方を遊びに誘ってくださることもあり、秋田市内へ映画を見に行ったり、角館祭りのやま行事に行ったことを今でもはっきりと覚えています。

 海外から戻ったばかりの私が秋田での生活になじむことができたのは、今思い返すと杉山先生の温かいお人柄があったからではないかと思います。

始終温和で物腰柔らかだった杉山先生でしたが、吉田戦車の漫画がお好きだったという意外な一面もお持ちでした。一部の教員間で吉田戦車の作品に出てくる弁当の話で盛り上がったことを懐かしく思い出します。

 杉山先生にはAIU退職後も転職時の推薦状を書いていただくなど、個人的に大変お世話になっておりました。

 そんな杉山先生が、帰らぬ人となってしまったことは今だに全く信じられません。例年のように年賀状をお送りすれば、何事もなかったかのようにお返事をくださる気がします。

杉山先生にもうお会いすることができないのであれば、秋田まで杉山先生を訪ねて、直接これまでお世話になったお礼を申し上げる機会を今日まで逸してしまっていることが悔やまれてなりません。

杉山先生、どうか安らかにお眠りください。

今井新悟(早稲田大学)

 私は1995年から1999年まで、State University of New York at Buffaloに留学して、認知言語学を勉強していました。家族も抱えた貧乏学生であった私は、1996年から、夏休みに勉強の合間を縫って、日本語のクラスのTAをやらせてもらいました。初めて杉山さんにあったのはその日本語の授業があったデパートメントでした。杉山さんはすでに何度かTAの経験があった先輩で、とても落ち着いた印象でした。その後、そこでTAをやっていた他の日本人とともに、何度か一緒に食事をしたと思いますが、初めの印象とは異なり、打ち解けてくると、とても元気のいい姉御のような感じでした。その後、私はインドに移って、仕事をしながら博士論文を書くこととなり、杉山さんとはしばらく音信がなかったと思います。数年後、私は日本に帰国し、当時開発中のテストのデータ収集のお願いに国際教養大学にお邪魔することがありました。そのとき、期せずして、杉山さんと数年ぶりに再会することになったのです。それまで、杉山さんが秋田にいることを知りませんでした。実は、私の実家が秋田であることから、その後は毎年のように大学にお邪魔するようになり、その度に杉山さんとお会いし、近況を語り合うことになりました。国際教養大学では、当時の日本では珍しい、教員の任期付き制度や年俸制があるというお話しを大変興味深く伺ったことを覚えています。私からみれば、プレッシャーのきつい制度のように思えましたが、杉山さんはそれを愚痴るのではなく、正当な評価を受けて、きちんと働くという、強い意志をお持ちでした。その屈託のない、すがすがしい態度を今でもよく覚えています。その後、数年にわたってお会いするたびに、杉山さんはその制度の中でも確実にキャリアを積み重ねておられました。そして、とうとう日本語プログラムをとりまとめる立場になっていました。このように、私から見ると、実に順風満帆なキャリアと見えました。もちろん、その裏には、相当な苦労もおありだったのでしょうが、それを表に出す人ではありませんでした。こちらの姿を認めると、いつも(甲高い声ではありませんが、明らかに私よりは)一段高いテンションで応対されていました。そのテンションの高さに、こちらもつい引きずり込まれたものです。ですから、杉山さんが大病をしているということも全く知りませんでした。今も、あの元気な杉山さんが、かくも若くして逝ってしまわれたという、そのギャップがどうしても埋められないままです。毎日、顔を合わせていたのであれば、そこにいなくなったという実感も湧くのかもしれませんが、私のように年に一度ぐらいずつしか会ってないと、また、次回、国際教養大学にお邪魔したときに、いつも通りに再会できる気がしてなりません。今後しばらくは大学に足が向かないと思います。大学に伺って、そこに杉山さんがいないという、つらい事実を、その場で受け止めるのは、今しばらくできそうもありません。今しばらく、心よりご冥福をお祈りするのみです。

合掌

 私が初めて杉山朗子先生にお会いしたのは杉山先生が大学院留学のためにバッファロー大学にいらっしゃった90年代前半のことです。当時私も大学院生でしたので同朋として、またそれに加えて日本語プログラムでの同僚として大変お世話になりました。杉山先生は93年から98年までバッファローで日本語を教えられ、その5年間とても献身的にお働きになりました。当時は日本語のクラスが朝から夜まであり、研究室ではいつでも必ず日本語の先生方が仕事をされており、その中には必ず杉山先生がいらっしゃいました。複数の先生方がチームで同じクラスを担当していましたので、チーム間のサポートも大切なのですが、杉山先生はとにかく他の先生方のことをよく気遣ってくださり、必要があればいつも快くお手伝いしてくださいました。見ていないようで細かいところまで気づいていらっしゃる、そういう先生でした。日本語はどうしていつも遅くまで研究室にいるのか、と他の外国語の先生方によく聞かれたものですが、大学内でもそれは有名だったと思います。しかしそれは、それだけ当時の先生方の仲が良く、お互いのサポートが厚く、それだけ仕事にやりがいがあったということに尽きると思います。そのような雰囲気作りの中で杉山先生の存在は本当に大きなものでした。いつも他の人よりも一歩下がっていらっしゃるようでいて、実はうまくみんなをまとめて牽引することができる、そのような不思議な先生でした。

 96年10月のある月曜日の出来事ですが、夜のクラスで教えていると杉山先生が教室まで来られました。その当時他州に住んでいた私の妻からの連絡を受けて、私の母の訃報を教室まで伝えに来てくださったのです。それを聞いた後でどのようなやり取りをしたのか全く思い出せないのですが、「だいじょうぶですか」と聞いてくださった一言、それから杉山先生が即座にその場で授業を引き継いでくださったこと、そして教室を飛び出したことを覚えています。杉山先生のお人柄についてはたくさん語ることがありますが、私にとってはこの出来事がまさに杉山先生のお人柄そのものでした。

 Ph.D.を終えられて日本にご帰国されてからは、一度バッファローで少しお会いしただけで、その後はお会いすることがありませんでした。日本の杉山先生にご連絡させていただいた時は、今度ぜひ秋田に来てください、との一言をいつもメールに添えてくださいました。日本で杉山先生との再会が果たせず今となっては本当に悔やまれます。もしお会いすることができたなら、改めてたくさんの感謝の思いをお伝えしたかったです。今はその感謝の思いとともに、また杉山朗子先生のたくさんの良き思い出とともに、これからも歩んでいきたいと思います。

ニューヨーク州立バッファロー大学言語学科

下條光明

JLT9期生 鈴木薫

 私が初めて杉山先生とお会いしたのは、国際教養大学専門職大学院日本語教育実践領域に入学したばかりの、2016年4月と記憶しております。英語を話さなければならないことや、日本語教育を専門として初めて勉強することなどに対して当時は大変プレッシャーを感じ、毎日緊張しておりました。そんな折先生にご相談に乗っていただき、その温かいお人柄と深い知識に触れ、緊張をだんだんとほぐすことができました。

「秋田で日本語教育の仕事をしたい」という私の将来についての相談にも乗っていただき、具体的な進路や職種などについてご助言を頂きました。

 2017年9月に日本語教育実習が始まった際には、私が行った模擬授業に対し、「導入から応用練習にかけて、段階を踏んだ授業を行えていない」、「指示が不明瞭で、何をしたらいいのかが分からなかった」など、課題や問題点を厳しくも丁寧にご指導くださいました。先生の励ましとご助言を支えに、冬期教育実習、そして春期教育実習も乗り越えることができました。杉山先生から賜った多くのご指導に心から感謝しております。

 今でも先生の柔らかな笑顔と優しいお姿が忘れられず、どこかでまたお会いできるような気がしてなりません。

先生との早すぎるお別れが残念でなりませんが、今はただご冥福をお祈りしております。杉山先生、ありがとうございました。どうぞ安らかにおやすみ下さい。 合掌