杉山朗子先生について
私が初めて杉山朗子先生にお会いしたのは杉山先生が大学院留学のためにバッファロー大学にいらっしゃった90年代前半のことです。当時私も大学院生でしたので同朋として、またそれに加えて日本語プログラムでの同僚として大変お世話になりました。杉山先生は93年から98年までバッファローで日本語を教えられ、その5年間とても献身的にお働きになりました。当時は日本語のクラスが朝から夜まであり、研究室ではいつでも必ず日本語の先生方が仕事をされており、その中には必ず杉山先生がいらっしゃいました。複数の先生方がチームで同じクラスを担当していましたので、チーム間のサポートも大切なのですが、杉山先生はとにかく他の先生方のことをよく気遣ってくださり、必要があればいつも快くお手伝いしてくださいました。見ていないようで細かいところまで気づいていらっしゃる、そういう先生でした。日本語はどうしていつも遅くまで研究室にいるのか、と他の外国語の先生方によく聞かれたものですが、大学内でもそれは有名だったと思います。しかしそれは、それだけ当時の先生方の仲が良く、お互いのサポートが厚く、それだけ仕事にやりがいがあったということに尽きると思います。そのような雰囲気作りの中で杉山先生の存在は本当に大きなものでした。いつも他の人よりも一歩下がっていらっしゃるようでいて、実はうまくみんなをまとめて牽引することができる、そのような不思議な先生でした。
96年10月のある月曜日の出来事ですが、夜のクラスで教えていると杉山先生が教室まで来られました。その当時他州に住んでいた私の妻からの連絡を受けて、私の母の訃報を教室まで伝えに来てくださったのです。それを聞いた後でどのようなやり取りをしたのか全く思い出せないのですが、「だいじょうぶですか」と聞いてくださった一言、それから杉山先生が即座にその場で授業を引き継いでくださったこと、そして教室を飛び出したことを覚えています。杉山先生のお人柄についてはたくさん語ることがありますが、私にとってはこの出来事がまさに杉山先生のお人柄そのものでした。
Ph.D.を終えられて日本にご帰国されてからは、一度バッファローで少しお会いしただけで、その後はお会いすることがありませんでした。日本の杉山先生にご連絡させていただいた時は、今度ぜひ秋田に来てください、との一言をいつもメールに添えてくださいました。日本で杉山先生との再会が果たせず今となっては本当に悔やまれます。もしお会いすることができたなら、改めてたくさんの感謝の思いをお伝えしたかったです。今はその感謝の思いとともに、また杉山朗子先生のたくさんの良き思い出とともに、これからも歩んでいきたいと思います。
ニューヨーク州立バッファロー大学言語学科
下條光明
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