杉山さんのご逝去によせて

今井新悟(早稲田大学)

 私は1995年から1999年まで、State University of New York at Buffaloに留学して、認知言語学を勉強していました。家族も抱えた貧乏学生であった私は、1996年から、夏休みに勉強の合間を縫って、日本語のクラスのTAをやらせてもらいました。初めて杉山さんにあったのはその日本語の授業があったデパートメントでした。杉山さんはすでに何度かTAの経験があった先輩で、とても落ち着いた印象でした。その後、そこでTAをやっていた他の日本人とともに、何度か一緒に食事をしたと思いますが、初めの印象とは異なり、打ち解けてくると、とても元気のいい姉御のような感じでした。その後、私はインドに移って、仕事をしながら博士論文を書くこととなり、杉山さんとはしばらく音信がなかったと思います。数年後、私は日本に帰国し、当時開発中のテストのデータ収集のお願いに国際教養大学にお邪魔することがありました。そのとき、期せずして、杉山さんと数年ぶりに再会することになったのです。それまで、杉山さんが秋田にいることを知りませんでした。実は、私の実家が秋田であることから、その後は毎年のように大学にお邪魔するようになり、その度に杉山さんとお会いし、近況を語り合うことになりました。国際教養大学では、当時の日本では珍しい、教員の任期付き制度や年俸制があるというお話しを大変興味深く伺ったことを覚えています。私からみれば、プレッシャーのきつい制度のように思えましたが、杉山さんはそれを愚痴るのではなく、正当な評価を受けて、きちんと働くという、強い意志をお持ちでした。その屈託のない、すがすがしい態度を今でもよく覚えています。その後、数年にわたってお会いするたびに、杉山さんはその制度の中でも確実にキャリアを積み重ねておられました。そして、とうとう日本語プログラムをとりまとめる立場になっていました。このように、私から見ると、実に順風満帆なキャリアと見えました。もちろん、その裏には、相当な苦労もおありだったのでしょうが、それを表に出す人ではありませんでした。こちらの姿を認めると、いつも(甲高い声ではありませんが、明らかに私よりは)一段高いテンションで応対されていました。そのテンションの高さに、こちらもつい引きずり込まれたものです。ですから、杉山さんが大病をしているということも全く知りませんでした。今も、あの元気な杉山さんが、かくも若くして逝ってしまわれたという、そのギャップがどうしても埋められないままです。毎日、顔を合わせていたのであれば、そこにいなくなったという実感も湧くのかもしれませんが、私のように年に一度ぐらいずつしか会ってないと、また、次回、国際教養大学にお邪魔したときに、いつも通りに再会できる気がしてなりません。今後しばらくは大学に足が向かないと思います。大学に伺って、そこに杉山さんがいないという、つらい事実を、その場で受け止めるのは、今しばらくできそうもありません。今しばらく、心よりご冥福をお祈りするのみです。

合掌

Akiko Sugiyama Memorial

このHPは2018年7月25日にご逝去された故杉山朗子先生に捧げます。

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