最近考えていること

杉山朗子先生 最近考えていることをお話しいたします。

杉山朗子先生、まだまだお話ししたかったことがたくさんあったのに、逝ってしまわれましたねえ、早すぎます。

ぼくは、国際教養大学大学院JLTコースで「日本語教育史」を講義してきましたが、杉山先生は興味があるということで、学生といっしょに聴講していらっしゃいましたねえ。学生だけに話をするのとはちがう緊張を覚えたものです。

すでにJLTを退任してしまったぼくですが、「日本語教育史」についての考えはずいぶん変わってきました。この頃は、根本的に「世界」を捉え直し、その中から「日本語教育史」を考えていく必要があるのではないかという思いが強まっています。

杉山先生、ぼくのアイデアの一端をお話ししますので、コーヒーでも飲みながらお聞きください。

 今、私たちは「文型」という概念を中核に置きながら日本語を教えていますが、文型は大きな枠組みから言えば「文法」に属します。その「文法」という枠組みを基礎に置き、日本語を学習・教育した人たちに桃山時代のイエズス会宣教師がいます。

日本語学習・教育はそれ以前からあり、例えば1072年に北宋に渡った延暦寺の僧成尋は杭州で日本語をつかう人物に遭遇したりしています。しかし、中核に「文法」を置き、そこから日本語学習・教育を構成していく手法は、どうも桃山時代の宣教師の活動が初めてのようです。同時に、この視点から見ると、日本語教育は桃山時代から今日までずっと「文法」を中核に置くという基本構成は変わりないということにもなります。

では、「文法」という概念は、どこで生まれ、日本語教育の中に入ってくるのでしょうか。

古代ギリシャの基礎教育(自由7科)の前半段階は、「文法、修辞学、論理学」で構成されており、「文法」はその第1歩目の最重要の位置にあり、言語教育の出発点となります。

このギリシャの考え方は、イスラム文化に入りイベリア半島に伝播し、さらにイスラムからの独立を計るスペイン系キリスト教徒の中に入り、教会はセビリアにアラビア語学校を設立します。学習者は宣教師で、学習目的はムスリムをキリスト教に改宗させるためのコミュニケーション手段の獲得にありました。

桃山時代のイエズス会宣教師の日本語学習は、このような歴史の流れに従った活動であり、日本語学習はキリスト教布教の手段であったということになります。

 では、ギリシャから始まった「文法」概念は、アジアに伝わったのでしょうか。伝わっているのです。

 東西の文化交流は、シルクロードが有名で、唐代は碧眼の色目人(青い目のクルド人)が担い手の主流でしたが、そのあと回族(中国のムスリム)が交易を担うようになります。平氏の日宋貿易における輸入品、例えば「硝子瓶入り薔薇水や白砂糖」はアラビアあたりからの輸入品のようで、海の交易者である回族がもたらしたものでしょう。回族は、交易をしながら、広東などに蕃坊という外国人専用居住区をつくり、その中で漢族とは異なる独自の文化生活をしていました。

異民族王朝元は、中国から得た銀納租税をモンゴル貴族に下賜し、貴族はそれをイスラム商人に投資し、イスラム商人は陸路により海路によりアジア大陸全体にネットワークを張り巡らせ交易を展開します。広東の蕃坊はその広域経済圏の一端にあったわけですし、アフリカにまで到達した明代「鄭和の大航海」もその延長線上にあります。

 明は、皇帝を漢族内部から出した民族政権で、「官」と「民」において異なる興味深い外国語管理を見せてくれます。「官」においては、外交文書の中国語への翻訳法を『華夷訳語』という書籍にまとめました。このシリーズ本は、10以上の言語について言語別に編纂され、日本語についても『日本館訳語』1549があります。

注目すべきは、「民」である回族のイスラム継承教育です。明という民族政権の下で回族は祖国との関係を消失し漢族化していきますが、蕃坊の中では母文化・母語の継承が問題となり、「経堂」という学校をつくり、継承教育を行います。「経堂」での教育は、まずアラビア語あるいはペルシャ語の学習から始まりますが、その第1歩目が「文法」教育なのです。その後文法による文献講読に進みますが、この「経堂の文法教育」こそが、ギリシャ起源の「文法」概念がアジアに伝わった証しなのです。アラビア語文法の教科書は、ムタッリズイー(1213没)やジャーミー(1492没)の著作が使われていますが、ともに中東においてアラビア語で書かれたものです。興味がおありでしたら、中国ムスリム研究会編2012『中国のムスリムを知るための60章』明石書店をお読みください。

 では、この「文法」概念を回族は日本に伝えたのでしょうか。そうはならず、結局一番槍は宣教師がとるところとなりました。同時に私たちに、日本への高度文明の伝達は西洋経由のルートによるものなのだ、という思い込みを生じさせることにもなりました。文明伝播の実像を見直す必要を感じます。

私たちは「襦袢」という語がポルトガル語からの外来語であることを教えられてきました。しかし、そのポルトガル語がアラビア語のジュッバ(羊毛製上羽織)由来の語であることは知りません。ましてジュッバがgiuppa(イタリア語)、aljuba(スペイン語)、jupe(仏語)とヨーロッパに広がる流れをもつことも知りません。

徳川時代の漢方薬に「シャリベツ」というものがあります。こんな薬、ぼくは知りませんでしたが、「砂糖を煮詰めたもの」だそうです。で、漢方だから中国で発案されたものと勝手に思い込んでいましたら、中央アジアのサマルカンドの医師が「シャルバート」(アラビア語シャリバは飲むの意。「舎里八」と表記)なるものを中国の元にもたらしたという記録があるそうです。もう1つ話題を提供しましょう。「シャルバート」はヨーロッパで大流行し、それが明治の日本に入り、人気を得てハイカラ舶来冷菓になります。今度は、皆が知ってる冷たくって甘~い「シャーベット」という名になって。

 こんな文化伝播の姿をもとに考えていくと、「日本語教育史」はどんな意味を持ってくるのでしょうか。

 杉山先生、どうお思いでしょうか。お聞かせください。

長谷川恒雄

Akiko Sugiyama Memorial

このHPは2018年7月25日にご逝去された故杉山朗子先生に捧げます。

0コメント

  • 1000 / 1000