ざっくばらんで明るくて。そして時々の関西弁
国際教養大学専門職大学院 嶋ちはる
杉山先生を思い出すとき、いつも先生のざっくばらんさと明るさ、そして時々の関西弁トークがただただ懐かしく恋しくなります。2014年に国際教養大学に着任して以来、先生にはどれだけ助けていただいたことでしょうか。初めてお会いしたのは、AIUでの就職面接前夜でした。その前にスカイプで面接していただいたときには、かっちりとしたジャケット姿でスキも抜け目もなく、いかにも「デキる女性」というオーラが全開でした。その印象が(いい意味で)最初に崩れたのは、面接・ティーチングデモ前夜のディナーの席です。スカイプ面接時の先生のシャープな印象から、翌日の「勝負の日」を前に粗相があってはいけないと緊張して晩御飯に向かったのを覚えています。しかし晩ご飯に現れたのは拍子抜けするぐらいの「普段着」の杉山先生。明るく、時には愛のある突っ込みを交えた先生の軽妙なトークに、私も知らず知らずのうちに、不安に思っていること、質問などを率直にお話させていただいていたように思います。「秋田」というこれまでの人生で全く縁のなかった場所で働くことに不安はいろいろとありましたが、この晩ご飯が終わるころには、「ここなら大丈夫、この人の元で働きたい」という気持ちになり、安心感と意欲を持って翌日の面接に臨んだことを覚えています。
2回目に杉山先生のざっくばらんさに驚かされたのは、着任早々のある日の午後。唐突に、「明日温泉に行くけど、一緒に行かない?」と誘ってくださいました。上司と温泉に行くという発想がなく一瞬驚きましたが、文字通り「裸」で仕事のこと、新しい生活のこと、いろいろと話を聞いてくださいました。秋田という新しい環境で知り合いもほとんどいなかった私をさりげなく気遣ってくださっていたんだなと今思い出しても胸が熱くなります。私からお誘いしても、気軽に付き合ってくださいました。ズンバ(音楽に合わせて踊るエクソサイズ)にお誘いした時は、未経験とのことでしたが二つ返事で「行く!」と。当日は80年代のアメリカンポップスやらラテンの曲などに合わせ誰よりも軽やかにステップを踏んでいらっしゃり、初めてというのが全く信じられず。それだけにとどまらず、私がバテて全く動けない横で、ジムに置かれていた腹筋マシーン、さらには乗馬エクソサイズマシーンを、軽々と涼しい顔で使いこなされていました。一体何者かと思ったものです。
大阪出身の先生と和歌山出身の私。普段は「標準語」を話しているつもりの私ですが、時折アクセントがおかしいらしく、杉山先生をはじめ、日本語プログラムの先生方から愛のある突っ込みをいただくこともしばしば。ある時、プログラムの会議で学生の出席や試験のメークアップのポリシーなどについて議論になったことがありました。「冠婚葬祭」の時の扱いなども話題になり、「冠婚葬祭」という語が飛び交っていたかと思います。その帰り道、杉山先生に「嶋先生の話す「冠婚葬祭」、「キンコンカンコン」にしか聞こえなくて、会議中、頭の中でずっと鐘が鳴ってたわ」と言われたことがありました。さっきまでの議論の緊張感が一気に抜け、場が和んだのを覚えています。いつも防戦一方でしたが、たまーに杉山先生からも関西アクセントが聞かれた時には、ただただ嬉しく、ここぞとばかりにニンマリと杉山先生に突っ込ませていただいたものです。そんな時の杉山先生のいたずらっぽい笑顔と、わざと関西アクセントを強調した言い直しが大好きでした。上司である先生に対し、なんて失礼なことをしていたのだと思いますが、それをあっさりと許してくださる先生の懐の深さと笑いのセンスだったんだなと。先生の明るさとお気遣いで、自由に活発に議論ができる職場環境を作ってくださっていたのだと改めて思います。
先生との思い出は尽きません。もっともっと、側で先生から学ばせていただきたかったことがたくさんあります。大学院に所属が変わり、教師養成に携わり始めたばかりのひよっこな私ですが、迷いがあるとき、杉山先生ならどう学生にアドバイスされるのだろうか、どのようにフォローをされるのだろうか、と時々考えます。(夢でいいので、ぜひぜひそちらの世界からアドバイスをくださーい!!)まだまだ先生の足元にも及びませんが、一緒にお仕事をさせていただいた時間を財産に、いつか先生のような教育者に近づけるよう、努力していきたいと思います。また、そちらで会えるときまで、お元気で。
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